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■羽後町の伝説■


●吉三郎の墓

  

 三輪神社境内に室町様式の鐘楼があるが、当社の別当吉祥院のなごりである。ここには振袖火事の八百屋お七の相手だった吉三郎の話が伝わっている。

 駒込の吉祥寺の小姓だった吉三郎は、自分に恋をして放火し亡くなったお七に自責を感じ、発心して諸国を行脚の果てに三輪の吉祥院を訪ねてきた。当時、糠塚に円福寺というのがあり、吉祥院の隠居寺となっていたので、吉三郎はその円福寺に移り祐泉と号してこの地で生涯を終えた。
 今残る吉三郎の墓には「祐泉、元禄十六年」と刻まれている。

 その後、お七風邪というのが流行したときに参詣者が多かったので、改めて見直されるようになり、野ざらしだった墓にお堂を建てたのだという。

(『秋田の伝説』(角川)より(以下角川))


●あぐりこ神社

   

■その1

 元稲田神社は別名あぐりこ神社といわれる。ここに使わされた神狐が安具理子という女狐で、多くの女狐を産み育て飽くことがなかったからだという。あぐりこと名づければ必ず男子が授かると言われ、子育ての稲荷として信仰が厚く栄えたという。

(『雪の出羽路』菅江真澄)

■その2(杉の宮由来)

 元稲田神社はさらに杉の宮とも言われる。ここに阿久利子という女が現れて村の家々の手伝いをするようになった。1人で2人分も働くのでどこの家でも歓迎されたが、秋になると姿を消し、春になるとまたやってくるのであった。だれも阿久利子の素性を知るものはいなかった。

 阿久利子は4年の間村に顔を見せたが、5年目の春、どうしたことかその姿は見られなかった。

 しばらくたったある夜、肝煎りの夢枕に阿久利子があらわれ、「今度自分は任官することになったので、村で相談して10両貸してほしい」と頼んだ。村人は、阿久利子のためならと喜んでお金を集め、約束の杉の宮大明神に納めた。

 それから半年ほどの後、阿久利子が再び夢枕に立った。「村人のおかげで任官から帰ることができたが、わたしには住む家がない。明朝、田んぼの中に杉の生えたところが見られるだろうから、永く村を守ることを約束するので、そこに堂宇を建ててほしい」と頼んだ。

 翌朝行ってみると、昨日まで何もなかった田んぼの中に、杉の大木が生えていた。そこで村中で相談して堂を建てたのが元稲田神社のはじまりであるという。以前は4足、2足の獣の食用は禁ぜられ、他村へ縁付いても一代の間は守らねばならないというかたい風習があった。(角川)

■その3(あぐりこさま霊験)

 元稲田稲荷神社は、この神さまの使者であるキツネがあぐりことよぱれていたことから、別の名を「あぐリこさま」とよばれている。ずっとむかしは、小さなほこらに小さな鳥居が一つあるだけの人目につかない稲荷さまだったが、天明五年に、快孝法印という神官がお堂を建ててからは近隣の信仰が篤く、これもみな、あぐりこの力によるものといわれている。

 あぐりこは「もうあきてしまった」という意味があり、どうしても男の子が産まれてほしいと願う者がこの神杜にお参りすれぱ、たちまち男子がさずけられるという言い伝えがある。あぐリこは女のキツネで、たくさん女の子ばかリ産みつづけ、もうあきてしまったからだという。参詣の際に「あぐりこあぐり こ」ととなえれば、かならず男の子が産まれてくるということである。

 あぐリこはキツネの女王で、これにつかえるキツネたちがたくさんいた。この地方にはむかしからネズミが多く、田や畑を食いあらし、百姓たちはほとほと困りはてていた。そこでこの稲荷神杜にお祈りをしたところ、一夜でそのネズミどもが一ぴきもいなくなってしまったという。
 
このことを伝え聞いたあちこちの村の百姓たちが、お参りすればキツネたちがやってきてネズミをとってくれるというので大評判になり、神杜はますます人々の信仰を集めるようになった。

 天明五年に神社を建てた時、神前にキツネの石像をたてようとして、快孝法印が湯沢の三蔵という石工にたのむことになった。
 正月二十日に、神杜から来た者だがといって、刀をさしたりっぱな武土が三蔵の家をたずねてきた。初午の祭りの前にどうかしあげてほしいと、礼をつくしてたのんでいった。その武士は、また二十八日にも来て催促をしていったので、三蔵は初午の前日にようやく作りあげて運んでいった。
 
ところが、神杜では一度も催促をした覚えがなかった。これもあぐりこのしわざだろうと杉宮の人びとは語りあったという。

(『秋田の伝説』(日本標準)より(以下標準))

■その4(ほら貝自慢の福泉坊)

 幡野の倉内に、福泉坊という山伏が住んでおり、代々伝わるめずら しいほら貝を持っていた。酒を入れてやればいくらでものみこみ、ほら貝の内も外もたちま ちほんのりと赤くなり、そのときにふけば、なんともいえないよい音を出すといわれていた。

 あるとき、西馬音内に行くため、元稲田を通りかかると、鳥屠の前に一ぴきのキツネが うずくまってねむっていた。ほら貝自慢の福泉坊はいたずら気をおこし、そっと近づいて、耳もとでいきなりほら貝をふき鳴らしたからたまらない。キツネぼすっかりおどろいてにげて行った。福泉坊はそのあわてぷリにからからと笑って見送った。

 用事をすましての帰り道、またそこを通りかかったのは午後の一時ごろであった。
 ところが稲荷神祉の鳥居の前にくると急に西も東もわからぬ暗やみになってしまった。おどろいた福泉坊が四方を見わたすと、向こうにちろちろと燃える火のかたまりがある。よくよく目をこらして見つめていると、その火のかたまリはだんだん大きくなって近づいてくる。はっと思って身がまえると、その火のかたまりから、ひとリの白い着物の老婆が出てきた。白い髪も着物も火で燃えあがり、目もほのおで真っ赤にかがやき、口からもぼうぼうと火をはいて福泉坊に向かってつかみかかろうとせまってくる。
 
あまりのおそろしさに、いのちからがら福泉坊は西の方ににげ、一里塚の上にあるスモモの木によじ登った。そのとき、あまリあわてて枯れ枝に足をかけたために、枝が折れて、どたリと音をたてて地上に落ちてしまった。

 はっと思って目がさめてみると、あたリは夕暮れであった。近くの畑でしごとをしていた百姓が、腰をぬかして立ち上がることができない福泉坊を、倉内までおぶって送って行ったのだという。(標準)

 湯沢市の中心部から国道398号線を西へ走ると、羽後町との境に雄物川が流れている。橋をわたるとすぐ道は2つにわかれ、右へ曲がると旧道のバス通りだ。街道沿いに立ち並ぶ民家を眺めながら数分走ると、やがてその名も「あぐりこ」なるバス停があり、その目の前に鳥居がいくつも連なっているのが、あぐりこさんこと元稲田神社である。

 正式な創建は不明だが、少なくとも400年はくだらないという。数々の伝承を持つことからも、信仰の厚さと霊験の高さ、そして人々に親しまれてきたのだということがわかる。境内には狐の狛犬がいくつも並んでいて、近所の方がかぶせてあげたのであろうホッカムリが、とてもかわいらしかった。

 

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雄勝郡羽後町杉宮。バス通りに「あぐりこ」バス停があるので、それを目標にしよう。


あぐりこ神社。


羽後交通「あぐりこ」バス停。


●和尚塚

  

■その1

 西馬音内仲町にある和尚塚は、昭和22年の大水に流されたので新しく建立されたものである。

 その昔、托鉢和尚がこの地にやってきたが、当時はこのあたり一帯が毛ダニの生息地であった。毛ダニに刺されて命を失う人が多いのを不憫に思い、断食して祈dc願をはじめついに命を絶ったとも、自分から穴を掘ってその中に入り、煙の立つ間は生きている証拠だと言って、自ら生き仏になったところとも伝わっている。
 このため元城と西馬音内に生まれた人は、たとえ毛ダニに刺されても決して死なないと言われている。

 以前は小さな森があって、その上に和尚塚と刻まれた石があっただけだったらしいが、その後に土地の所有者が森の一部を掘り崩して田んぼにしてからは、さまざまな不祥事が絶えなかった。そのため毎年住職を呼んで祈願をしていたが、大水に流されてそのままになっていた。
 ところが土地の人々の夢の中に、「お堂を建てて祀ってほしい」と和尚がたびたび姿を現すので、有志の寄進で建立されたという。(角川)

■その2

 (あらすじは、その1とほぼ同じ)
  和尚の名は大潜と伝わる。また、村人のために生き仏となった和尚塚のすぐわきから、間もなく温泉が湧き出し、薬湯として知られたという。
(『羽後の伝説』(第一法規)より(以下法規))


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