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■青森市の伝説■
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●イルカ参詣 |
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堤川の河口近くに諏訪神社がある。 |
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毎年川を登るのは「鮭の大助」や鮫であることが多いが、イルカというのはあまり聞かない。20頭ものイルカが悠々と川を上りお宮に参詣するさまは、想像するだけでもなかなか絵になる。さぞや壮観だったに違いない。 ちなみに境内の説明板によると、当神社は過去数回場所を変えているという。現在地に移ったのは明治5年のことで、それ以前は是川の中州にあったらしい。ということは、今よりもイルカの参詣はしやすかったということになるだろうか。 ★ ★ ★ |
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●善知鳥(うとう)神社 |
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大昔、青森市がまだ一面の葦原であったころ、善知鳥大納言安方という貴人が都からここに流されてきた。安方はある天皇のお叱りを受けて、その子は遠く南の果てに、父は北へ配流されたのであった。 今境内には安潟の名残といわれるうとう沼があり、また神社の北に安方という町もある。(角川) |
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都の貴人が遠く離れた異国の地で無念にも命を落とし、鳥に変化する・・・。まるで雀になった実方中将そっくりだが、これは都人のもののあわれを刺激し、ロマンを愛する風流心をくすぐったに違いない。 そんな善知鳥神社は、現在でも青森市の中心部で水と緑に囲まれた憩いの場である。本殿の北側に大きく美しい池があり、これがうとう沼である。 ★ ★ ★
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●裸島 |
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| 浅虫の海岸にそびえ立つ裸島は、木が1本もない赤肌の巨岩である。
昔、このあたりの村人の家に1羽のワシが舞い降りて、表で遊んでいた幼児をさらって飛んでいった。母親が懸命にワシのあとを追っていくと、ワシはこの岩上にとまって羽を休めた。これを見てわが子を奪い返そうと、母親は狂気の中岩肌に爪を立てて夢中に這い上がっていった。そのために岩に生えていた草木もむしりとられ、母親の指から流れた血で岩が赤く染まったのだという。(角川) |
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| 青森市街から走ること十数分。旅館やホテルが立ち並ぶいかにも温泉街らしい景色が飛び込んでくる。海岸沿いという絶好の立地も手伝って、青森観光の宿泊に必ずといっていいほど顔を出す浅虫温泉だ。前日は青森郊外の公園でテントを張って一夜を過ごしたため体は冷えている。そういや朝から顔も洗っていないなぁ。ここはひとつ風呂に入って温まっていこうか・・・と温泉街を走っていると、「道の駅」の看板があるではないか。温泉街の道の駅といえば日帰り温泉がつきものだ。これは願ったりかなったりというわけで、早速温泉へ。・・・あとはご想像通り、あまりの気持ちよさに伝説のことなどすっかり忘れて長居してしまい・・・ってゆうか、ホントに伝説のことわすれてました(笑)。裸島の「は」の字も見ずに帰ってきてしまい、気づいたときには、浅虫ははるか彼方・・・無念。 | |
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●目無しコオロギ |
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| 浅虫に悪徳長者がいて貧乏人に恩を売り、その娘を妾にした。娘は長者の悪巧みを知り古井戸に身を投げて死んだ。 娘に盲人の弟がいたが、姉の仇を討とうとして逆に長者に返り討ちにあい、同じ古井戸に投げ込まれた。 後に長者は姉弟の祟りで滅んだが、毎年秋になるとその井戸から目無しコオロギの悲しそうな鳴き声が聞こえてくる。それはめくらの弟の怨霊が、コオロギになったのだという。(角川) |
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●魚住まぬ川 |
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| 野内の根井川には、昔サケがたくさん上ってきた。 あるとき、ひとりの旅僧が村にやってきた。ちょうどサケが豊漁だったので、川守りがサケを1尾その旅僧に与えた。仏に仕える身だからいらぬと断られたが、むりやり与えた。川を渡ってから僧は、「それほどいらぬサケならば、今後この川にサケが上らぬようにしてやろう」といって、川原の石を袂に入れて持ち帰った。それからこの川は魚住まぬ川になったという。(角川) |
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| これは面白いパターンだということでとりあげてみた。普通は僧が魚を所望するのを断ったために魚がすまなくなったとか、水を所望するのを断ったために水が減ったとか、自業自得が説かれることが多いのだが、ここの話ではむしろ親切にやったことが仇となってしまったというパターン。まあ、お坊さんに魚というのもそもそも失礼な話なんだが、よけいなお世話、ということなんだろうか。 | |
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●東と八甲田の山争い |
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| 東岳と八甲田山は、昔から中が良くなかった。そしてとうとう争いが始まり、壮烈な戦いの末八甲田が東岳の首をすっぽりと切ってしまった。これから東岳は平らな山になってしまったのである。 その首は弘前西の岩木山まで飛んでいき、その肩のあたりに落ちた。岩木山の肩に瘤のようにくっついているのが、東岳の首であるという。 また東岳と岩木山の間の土地一体がよく肥えているのは、首が飛んだときに滴り落ちた血のおかげであるという。(角川) |
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●八甲田の大人 |
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| 麓に近い横内のある家の主が、ある年の正月の夜中に眠れずにいると、どこから入ってきたのかとても大きなひげ面の男が枕もとに立っていた。 その大男が主に向かって、「おれが里に下りてきて姿を見せるのはお前だけだ。それは、おまえの心がけの良いのに感心したからだ。みやげの薪を庭に置いておいたが、このことは誰に言ってもならぬぞ」と言った。主は、「ちょうど良いところへ来てくれた。正月のもちもあるから、食べていってくれ」と餅を差し出した。大人はよろこんでたくさん餅を食べ、来年もまた来るぞと約束して帰っていった。 それからというもの、毎年正月になると約束どおり大人がやってきたが、主のほかは誰も知らなかったのだという。 八甲田の酢ヶ湯では、死人が出るとにわかに風雨が激しくなり、いつのまにか亡骸が無くなることがあるという。これは山が穢されるのをきらって、大人がさらっていくのだという。(角川) |
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| 青森の伝承で大人(オオヒト)といえばまず岩木山が思い起こされるが、八甲田にも同じように大人伝承があるようだ。 大人は文字通り大きな図体の巨人であり、鬼であると語られることも多いが、話の内容を見てみると山という異界に住む「山人」(さらに言えば山神)の性格が濃い。岩木山の大人は農耕神としての側面も持っており、柳田民俗学が好みそうなテーマである。 |
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●乗馬とがめの蒼前様 |
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| 昔、津軽の武士が馬に乗って雲谷の方から横内へやってきたが、村の入口でどうしたことかばったり倒れ、そのまま息絶えてしまった。 そこで武士は馬の霊を弔おうと路傍に1本の松を植え、お堂を建てて蒼前堂と名づけた。 それからのち村人はこのお堂の前では必ず馬を下りて通った。もし乗馬のまま通過するとおとがめがあると恐れられた。 あるとき、強情な雲谷の男が村人の止めるのも聞かずに馬に乗ったまま通ろうとしたところ、果たして落馬して大怪我をしたという。(角川) |
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●弁慶石 |
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| 横内と浜館の境の小峠に、鏡石とも弁慶石ともいう石がある。 弁慶がここに来たとき、雲谷の峠にあった大石を投げたのがこれであるという。石に手形がついているのはそのときのものと言われるが、この石を人里に持ってくると天候が急変して作物や人に害があるといわれる。(角川) |
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●白髭水 |
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| 古館の近くに太郎次郎の館というのがあって、その名の兄弟が住んでいた。 ある年のこと、白髭の翁が御幣を持って、「津波が押し寄せてくる、山から水が湧いてくる、大勢の人が滅びる」と触れて回った。やがてその通りの洪水が起こり、多くの人々が滅んだ。このとき、館も流されてしまったという。(角川) |
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●機織の宮 |
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| 高田に九十九盛といって、小高い土盛がたくさん並んでいた。 昔このあたりに山姥がいて、浅虫の裸島が裸で寒そうだから着物を織って着せようといって、つむいだ麻糸をどっさりへそに巻いておいたのが多くの塚になったのであるという。山姥は神となり機織の宮に祀ったという。(角川) |
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●炭焼き藤太 |
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| 昔、都がたの身分の高い姫君が、乱世を避けて下女とふたり、ひそかに津軽に逃れてきた。たまたま戸建沢で炭焼きをしていた藤太という若者が、この姫の放浪するさまをあわれんで、わが家に伴っていたわっていた。 炭焼き暮らしの貧しさを見かね、姫は袋から黄金1枚を取り出して与えた。すると藤太は笑って、そんなものならこのあたりにいくらもあると、ひとつの沢を掘って黄金を積み上げた。藤太は姫に教えられて初めて金の価値を知り、たちまち長者になった。そして姫と夫婦になり、幸せに暮らしたという。 戸建沢は昔金沢と言ったが、姫がここを立ち去るとき、大切にしていた金の鶏を穴の中に置き、岩戸を建てて行ったので、戸建沢の名が起こったという。村人がよくここで金鶏が時を告げるのを聞いたという。 明治になってから、弘前のある石屋がこの話を聞き、金鶏を取ろうとしてその岩戸にのみを当てたが、壊すことができずに中止した。このときも金鶏が激しく鳴いたということである。(角川) |
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●雁風呂 |
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| 晩秋のころ、外が浜では雁が北から渡ってくるとき、途中で海上に浮かべて羽を休めるために小さい木の枝をくわえてくるという。ここまでくればそれも不要になるので外が浜の海岸に落としていく。そしてあくる年の春、再び北へ帰るときにまたこれをくわえて飛び去るのだという。 ところで雁が北へ去った後、海辺に取り残されたいくつかの枝があって、これは越冬する間に死んでしまった哀れな雁のものであるという。外が浜の村人たちは雁の供養のために残った木の枝を拾い集めて、これを燃やして風呂を沸かし、通りがかりの旅人にまで湯浴みをさせる慣わしがあったという。(角川) |
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| 「雁風呂」または「雁供養」といって、俳句の季語にもなっている風流譚であるが、角川の『青森の伝説』によれば、実のところ地元では具体的な伝承というのがなく、「所詮は都人の文芸的空想から生まれた話であろう」としている。 | |