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■黒石市の伝説■
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●牛石 |
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| 浅瀬石川にかかる浅瀬石橋下方の川の中に、牛石という大きな石がある。何年かに一度は、その背を水面に現すことがあり、その年は水不足で旱魃になるというので、村人は神酒を供えて豊作を祈る。
昔、黒石の石切がこの石を割り取ろうとしたところ、石は牛のように唸り出した。石切はまもなく死に、そのときの唸り声から牛石と名づけた。
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●一本杉 |
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| 浅瀬石部落に一本杉がある。もと浅瀬石城主千徳政氏の菩提寺跡にあった高さ15メートルほどの老木で、慶長元年(1596年)津軽為信に攻められて落城したが、この一本杉は千徳家の怨念がこもっているとして、大切にされてきた。 近年、東北縦貫道の開通でこの杉が路線に当たったが、切り倒して災いがあってはと、30メートル離れた現在地に移植して保存し、記念碑も建立した。 (角川) | |
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●鹿(しし)が倉 |
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| 浅瀬石の村はずれに鹿が倉というところがある。昔、村の鹿踊りに用いた鹿頭を埋めたのでこの名があるという。ところで、毎年踊りの時期になると埋めた鹿頭が化けて出て踊り出て困った。そこでとむらいの鹿踊りを催した供養をしたら、それから化けて出ることもなくなったという。 (角川) | |
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●獅子石 |
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| 黒石市の奥、獅子沢に獅子石という自然石が2つあって、それぞれ高さ・幅ともに1.5メートルくらいだが、石の表面に鹿の角・目・鼻・口と見える模様が素朴な線で刻まれている。
昔、村の獅子踊りが藩で禁制になったことがあった。そこで獅子頭をこの石のそばに埋めたところ、その獅子頭が石の表面に現れたのだという。それで、獅子石の前で歌をうたうと、石に彫られた獅子が踊るとか、ときには笛・太鼓で囃しながら、獅子踊りの歌をうたうのが聞こえることもあったという。 (角川) |
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●花山院忠長 |
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| 黒石から十和田街道を16キロ行くと温湯という温泉がある。慶長19年(1614年)、津軽に配流になった京都の公卿花山院忠長がここに来て入浴し、少し温いなといったのがその名の起こりであるという。
中郷にある柿の老木は、忠長の杖が根を生じた杖柿であるという。 忠長が浅瀬石川を渡ろうとしたが橋がなく困っていると、サケが群れて寄り、背を並べて橋になった。忠長はサケの背を踏んで川を渡ったが、それからこの川のサケの背に2条の歯型がついたという。 浅瀬石川で釣りをした忠長は、川に魚が少なくなると、鉋屑に望みの魚の名を書いて川に流してやった。この魚の手紙が下流の海に入り、竜宮に届くと、竜宮から所望の魚をたくさんこの川にのぼらせてよこしたという。 (角川) |
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花山院忠長は江戸初期の公卿である。天皇の女官との密通が露呈し、家康の裁定で蝦夷流罪が決定した。幕府の権力が朝廷に及ぶきっかけとなった事件である。配流となった忠長は松前藩主慶広に厚くもてなされ、蝦夷の地に京文化が花開くこととなった。 ところでこの忠長、杖が木になったり、サケの背中を渡ったり、極めつけは竜宮と交信していたりと、ほんの400年前の人物とは思えない荒唐無稽ぶりである。だが、弘法大師や義経、以仁王など「貴種流離譚」自体は普遍的なものだ。 |
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●布淵 |
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| 二庄内の浅瀬石川下流に、長瀞といって水の淀んだ深い流水がある。 昔、このあたりに住む娘が川水に布をさらしていると、町方から | |
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●八ノ太郎 |
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| 黒石の生まれで山子の八郎が、仲間と山に木を切りに行き、谷川でヤマベを取り焼いて食ったところ、ひどくのどが渇くので谷川の水を飲み干しついに大蛇になった。
八郎は変わり果てたわが身に驚き、大鰐・古懸・碇ヶ関にかけて大きな湖を造ってすもうとし、堤を築いた。これを見て古懸のお不動様は、ここに堤を築かれては大変と、蟹になって堤に穴を開けたので、八郎は望みを遂げることができなかった。 そこで大鰐の大日様は、八郎に金のわらじを与え、このわらじの緒が切れたところをお前の住処にせよとさとした。 八郎はこれをはいて行き、今の八郎潟の近くで緒が切れたので、秋田の三吉様に毎日千駄の魚を差し上げる約束で許しを得、ここに潟を造って住むようになったという。 (角川) |
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●蛾虫の一エビ |
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| 温湯温泉から板留温泉へ行く途中に、蛾虫坂がある。この坂の右手が小高い丘になっており、蛾虫の一エビという。 昔八郎が、この下を流れる浅瀬石川と中野川をせき止めて飲み水をためようと、エビ(柳の枝を折り曲げてざるのように作った土砂の運搬具)一杯の土を盛った。しかし、中野のお不動様に叱られて、そのまま逃げた。そのときの土盛りだという。 (角川) | |
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●八郎石 |
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| 浅瀬石川上流の一ノ渡部落にあった。蛾虫坂から追われた八郎が、ここに湖水を造ろうとしてエビで山手の土を運んだ。運ぶ途中でエビからこぼれた土が一ノ渡の道端の小さい丘となり、エビに残った石を川岸に置いたのが八郎石だという。 八郎は一ノ渡でも追われて、十和田の潟に逃げ込み、ついにそこの主になったという。(角川) | |
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以上3点は、黒石に伝わる八郎伝説である。 大蛇に変化してから安住の地をもとめあちらこちらへと放浪する八郎の姿は、そのまま水神八郎を氏神とした民族の移動の姿ととらえることもできる。堤を築く八郎はすなわちその地に住み着くための治水工事であり、土地の神々はもとからその地に住んでいた人々。地元の人たちに迷惑がられ、工事を邪魔されて、やむなく八郎の民はその地を去ったのであった。 もちろん、これは僕の空想物語にすぎないのだが、神話的要素を多分に含んだ三湖伝説は、まだまだ多くの謎を含んでいるのである。 |
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