文武天皇の御世、秦勝道という人がいた。非常に優れた人物であったが、腹黒い家臣の讒言で 遠く会津に流されてしまったのであった。里人は勝道を手厚くもてなし、やがて村長の娘との間に
娘が生まれた。両親はその娘を千代姫と名づけ、その寵愛は浅からぬものがあった。
その頃、里人の間には庚申講が広まっており、勝道もそれに参加していた。
ある講の日、 やはりその講に参加していた怪しげな老人の番であった。老人は、人々を自分の家に案内すると言って、 水辺までやって来た。老人は、「わたしの家はこの水底にあります」と言って、水の中へ入っていく。
講衆は怪しみながらも老人の後を追って水へ入ってしばらく行くと、やがて竜宮城へ達した。
翁は皆を金殿玉楼の中へ招き入れ、竜宮のすばらしい珍味が次々と饗された。
最後に、瑠璃の盆に 金色の肴がすすめられた。勝道が、これはなにかと訪ねると、それは竜宮においても得難き 「九穴の貝」であるという。しかし講衆は、庚申の精進潔斎の日であるので、その貝を食べたふりを
して、密かに懐中にしたのだった。
やがて辞する時になり、翁は涙し、「これで私の願いはすべてかなえられた。もう講に出席することは できない」と言う。講衆も涙する中、やがて元の水辺へ送られたが、気がつくと見送りの者も消えていた。
講衆はただただ奇怪の感にうたれるだけであった。そして、かの懐中に忍ばせた貝も、みな渕に投じて しまった。
しかし、勝道だけは、これは異境の珍物と、大切に持ちかえったのだった。
ときに千代姫六歳、父が帰るとさっそく土産をねだったが、「今日は無い」と父は言う。しかし、千代姫は それをきかず、父の脱ぎ捨てた衣裳の袖からかの肴を見つけ、それを口にしてしまった。
勝道は驚いて制しようとしたが、もはや遅く、姫はひとかけらも残さず食べてしまったのだった。
勝道はこれが原因で姫が短命になってしまうことを心配し、これより一層庚申を信仰するようになり、 その感応が現れたのであろうか、姫は年を追うごとに才芸に優れ、聡明、叡智の少女となったのであった。
やがて姫十二歳のとき、父勝道が、姫に人生の行く末のことをことごとく教え諭しながら、 病でこの世を去った。村人は皆悲嘆にくれ、母子をなにかと援助してやり、そして姫は十六歳になった。
その才能はますますすばらしいものになり、やがて村人は姫に婿を探そうとした。
しかし、 姫はかたくなにこれを拒み、一切の不潔を断ち、一心に弥陀の宝号を唱え年月を送った。 しかるに母もやがてこの世を去った。
姫は悲しみの中に盛者必衰のことわりを深く感じ、剃髪して出家し、遍歴の旅に出、諸々の奇跡を顕わした。
五百二十八歳のとき、後嵯峨帝の御世には、勅命をこうむって都において諸病退散の法を修し、見事病疫を削除した。
その後さらに三十余年を経て里に帰り、父母の供養のために松峰山を建立、自らの像も刻み、村人に対し 「常に我が名号を唱えれば、現世においては短命を転じて長命に、来世においては安養にいたれるだろう」
と誓っのであった。
その後、一度でもこの尊像を拝したものは福寿長久、諸願成就しないことはないという。
八百歳の 誠をここに残し置く 誓を結べ 後の世の人
参考 『会津の歴史伝説』(歴史春秋社)