■小田川の狐
小田川の上流は三本ある。そのうち笹川といって化けもの沢からの水は冷たいから、本流に落し、他の大滝川・猪ノ鼻川の水を潅漑用水に使用すべく、本流よりも導水路を高くして、小田耕土に注ぎ入れるよう大工事をした跡が残っている。この用水路の入ロを「水カゴ」と俗称されているが、「龍」というも実は「川口」の転化音でなかろうか。
夏の陽気のよい夕方などに、この地点まで水取りに独りで行ったりすると、よく狐に化かされたという。だから食べ物は持って行かない。しかし化かされると必ず一夜泊められて腹ペコペコで解放される。泊りはどんなあんばいだった、と聞くと、いずれも御堂でお篇りさせられたという。それではいま「水カゴ」と呼んでいるのは昔の人が「水篇り」と書き残したからではないかという説もある。
男ばかりが化かされる。もっとも女人は行けないから。煙草をのまない人も水取りのときは煙草入れを下げて行く、すると決して化かされないという。
■千石川原の狐
県道川桁野老沢線。内野・下館の中間にある千石川、川の南の道路東西の田圃は、昭和40年頃開墾されて田となったが、以前は株刈場で大きな原っぱであった。干石川から5、60間南、道の東側に小祠が祭られていたが、開田のため移転したか現在はない。
昔、下館村の某、ある夕方内野に行っての帰り道、原で小狐を見付け追い回して獲って来た。そして数日後の夕方、家の前で遊んでいた子供が急にいなくなったので、探し尋ねて千石川まできたとこ
ろ、草原の中から声がする。入って見ると、誰かに追われているらしく逃げ回っている。驚いて大急ぎで追いつき子供を抱いて連れ帰った。
更に幾日か後、内野に所用で出かけそのまま主人が帰らなかったので、泊ったのかしらと翌朝妻が迎えに行ったところ、原中の草は全部踏み敷かれて立っている草はない位、某は祠の前で倒れて死んでいた。昨夜某は用を済ませて、暗くなってから帰途についたという。村の人々は狐に仇を返されたのだと噂した。
■麓山さまの狐
麓山さまから東手の山ふところに、昔から代々人を化かして上手な狐一家が棲んでいて、化かされた話はみなその系図の狐だったという。
明治になって十年も過ぎたころか、壷下のえぴやの爺様とて、えぴをすくって商売にしている土屋家のご隠居、大きなすくい網をかついで菱沼川を「オー深ェ、オー深ェ」と渡っているつもりが、実は自分の家の脇のそば畑を、さるっぱかまを脱いで爪先きを立ててあっちへ回ったり、こっちへ来たりこいでいた。
「爺さまいつまでたっても家さ帰んねが畑ん中で何してんだベヤ」 と家の中から見ていたのだが・・・ビクいっぱい漁ったえびはすっ かり狐に食われてしまって空らっぽになってから、ようやく川を渡りきった風情で疲れ切って帰宅した。
「ソンナに水出たと思わねかったが、川深くって流されそうだった。アー、ヤット命拾いしたナ」と言ったままとうとう寝込んでし まった。
■狐に化かされた話
日露戦争の頃かナ、壷下でも1、2の大百姓の親父様、はじめて走り出した岩越鉄道の汽車に乗り、郡山には珍らしい魚もあって安いからといって明日から始まる田植えの買い物に出掛けたもんだ。早乙女8人も頼んだからカミさまからいわれて大風呂敷を背負って出かけた。
思う存分珍しい食物たがけない(持てない)程買い込んで夕闇迫る頃関都の停車場まで帰り着いた。したら、駅まで家から息子か迎えに来ていた。
「今朝からお婆ンちゃ、あんべー悪くなって医者上げた。おとっつぁの帰りを汽車たンびに待ち疲れた」という。
それから急いで帰って見ると誰もいない。息子が座敷の寝床を見て来て「いまよくねむってっから起こさネー方かいい。湯サ入って汗流して着替えてから逢あせぇ」で、先ず湯に入って好い気分で湯殿の板場でからだを拭いていた。
すると、夜が白んで隣り近所の女たちが、三々五々苗取りに出かけて「なんだ!隣りのおとっつぁ肥え壷の上で何してンだ。からだ中泥だらけになってーアーラはだかで」我が家の日泥田の肥溜めの蓋の上で湯上り気分の所を引き下ろされた。落語だとこれが「壷下ろし」のオチだが、さつき買い物は、早乙女たちにくれる手拭いを残して、食べ物類はありっきり狐に食われてしまった。
■ヒロサが化かされた話
大正の初め頃か、壷下でのお祭りの時。「ヒロサ」とい う人気者の菓子屋さんがいた。ヒロサは東京で師匠を取って習った唄と踊りの先生として、湖をめぐる村々の大評判になり引っ張りだこ。芸で人気をさらい、菓子類の売れ高は最高だった。
お祭りに頼まれてヒロサが舟でやってきて、東京キンツバ「大正焼」を焼いた。宵祭の午前中から店がかりをしてどんどん売れた。
宵祭の夜は、盆踊りをやめてヒロサが若者たちに「安来節泥鰌すくい踊り」の伝授をする約束で露台店は休む手筈なので、宵闇迫まる刻限に店じまいを急いでいるところへ、ヒョッコリ白装束の弥宜様か現れて「宵龍りの賑わいが大したものなんだ。今夜店を閉める馬鹿があるか。若者たちには渡りを付けた」と教えられて、街中から神社境内の燈篭下へ遠い道のりを車の後押し大勢の子供らに手伝ってもらって、夜店を開いた。
ねじり鉢巻で「いらはい、いらはい、東京の大正焼だよ」売り声勇ましく、身振り手捌きおもしろく、あざやかに大鉄板一面に焼き揚げ、焼き揚げ売り出した。一人ではとても間に合わないので、太夫様の方から女っ子の助手を手伝いに2人も出してもらって大張切り、唄の上手なヒロサ故、名嗣子を聞かせなから善男善女を引き寄せて売れるわ、売れるわ。あすの本祭りに売る予定の大量の砂糖や小麦粉も、餡も油も、原料アリキリその夜のうちに揚げ尽してすっかり売れてしまった。大正焼1個1銭の銅貨は原料入の空菓子箱いずれもいっぱい。
凱歌を上げて宿へ帰ろうとしたら、何と荷車かチットも動かない。「銭か重いからか」とよくよく調べたら、湖水のなぎさの砂に車輪がめり込まっているではないか。あたりは急に真っ暗がり、人っ子一人いない。岸に寄せる小波の音が事の異様を告げていた。
売り金は?と思い、投げ入れておいた箱の蓋を取って手を入れて見て驚いた。波打ちぎわのきれいな小砂利かギッシリと箱に詰めて車に積まれていたのである。人里はなれて祭りのけはいが及ばない、こんな湖畔のはずれまで引き回わされて、社前の灯龍群と見せていたのは湖岸の岩礁で、今の「紺碧の碑」から眺める雄大な風景の中に入る。
踊りの先生どこへ雲かくれしたのかと八方当って見たが、大勢の若者何にも知らぬ。昔は狐が偉かった。ヒロサはそれから急に老け込んで、もう「オヒチ追い」はしなかったという。
参考 『猪苗代町史』