時は明治の少し前、「魔の難所」と呼ばれたキッカケ橋から、馬馬車もろとも崖下に落ち即死するという事件があった。当時の松川村では大騒ぎとなり、対策工事を施すこととなったが、そうこうしているうちに時が過ぎ、馬車が落ちた日から丁度1年目の日に再び老婆が墜落死するという事故があった。村では、この地には何かの怨霊が残っていて、祟っているのだとまことしやかにささやかれるようになり、そんな中、ようやく工事も始まった。
不気味な噂のささやかれる中、工事人夫のなかに、「このような場所には人柱を立てると良い」と言い出した者がいた。皆この話を真に受け、いよいよ土盛というときに人柱を立てる話もまとまった。しかし、いざ誰がとなると、適任がいない。やがてこの話を言い出した人夫に白羽の矢がたった。
他の工人たちは口裏を合わせ、ある時、工事道具が紛失したことをこの人夫の仕業であるとでっち上げた。予想もしなかったことに当人は知らぬ存ぜぬで頑張ったが、秋も深いみぞれ降る11月、とうとうこの人夫が犯人であると決められてしまったのだった。
そして年も暮れ迫った12月22日、人夫とその妻は、手を合わせて拝むも聞き入れられず、とうとう人身御供にされたのであった。その子供は幼かったために残されたという。かくて3年越しの大工事は完了した。
ところが、今度は夏の夜毎にその生き埋めにされた夫婦のうめき声が聞こえるという噂が立ち、3年目の秋にまたも転落事故があった。更には観光バスが転落し、地獄絵さながらの情景を現出するということも重なり、地蔵尊を立てて祀ることとなった。しかし、その後も事故は続き、地蔵尊もいつの間にか倒れて土の中に埋まっていたのだった。
時は経って昭和31年、このままでは事故をなくすことができないということで、県直営の改良工事がようやく始まることとなった。その工事中、土の中から首の無い地蔵尊が掘り起こされた。工事の組長は地蔵の由来など知らなかったそうだが、別に掘り起こされた首と座像を合わせて、山上の広覚寺におさめたのだという。
参考 『古殿町史』