昔、長沼城主時貞の時代、時貞には阿梅(おうめ)という妾がいて、殿の寵愛を受けていた。また、本妻は桜姫といって、邪悪邪見な女であったが、礼儀は正しく、常に尊敬されていたのだった。この両人は共に稀に見る美人で、殿は常に左右に離さず侍らせていた。
ある酒宴の折、臣下の者も席に臨み、遊興をした。その中に1人の美男子がいて、酒の上のことながら、阿梅の手をとって踊った。
桜姫は、そのことを話の種にして、殿に「過ぎし酒宴の折戯れた男と阿梅は、時折密通している」と申し上げた。殿は一度は疑って阿梅を探ったが、その様子は見当たらなかったので、以前に変わらず寵愛した。
桜姫は、嫉妬の心が募るばかり。またある時には、密通の艶書を偽造し、書院に落としておいたが、殿はこれを見ても意に介せず打ち捨てておいた。
桜姫はますます妬んだ。
あるとき、花畑で花見の上覧があった。美男の男は、殿の御付役なので、殿のお供をして花畑に行った。桜姫はことのき手紙を男に渡し、阿梅に渡せと申し付けたので、男は何気なく取り次いで、花の木陰で阿梅に手紙を渡した。阿梅は、桜姫の計略とは知らずにその手紙を開いてみたところを、殿の目にとまった。
殿は阿梅を呼び寄せ、その文を見てみたところ、密通数度に及び、阿梅の腹の子も彼の種ならば、男子が生まれれば長沼中納言の家を共に握り、主君夫婦を毒殺しようという書状であったので、時貞は大いに怒り、調べもせずに阿梅を花畑の桜の枝にくくりつけ、つるし切りにして殺してしまった。
その泣き叫ぶ声は晴れ渡る春の日も曇り、咲き誇る花もしぼみ、散るかと思われた。供の者一同固唾を飲んで、肌に汗して折角の興も冷めてしまった。
男も直ちに斬首となった。殿と桜姫は城に帰ったが、それからは阿梅の怨霊が花畑の桜の木の間から出て城の方をにらみ、殺されたときの叫び声とともに陰火が燃え、城の方に登っていくのであった。城中でもしばしば不審な事が起こり、桜姫は大病を患ってやがて死んでしまった。続いて時貞も病気となって、日に日にやせ衰えるばかりとなった。
ある日、殿は呑用和尚に相談した。和尚はくわしく話を聞き、「かの阿梅は極めて貞女であるのに、無実の罪で殺してしまったので、その一念が凝って怨をなすのである。予不肖ながら供養施餓鬼をなして終生菩提を弔うので、殿憂うる事なかれ」と、大法会を催し、かの桜の木の下に行って、次の詩を詠んだ。
寛魂幽霊如猛虎 報念無量焚己体
貞婦頃速殿法味 後生成仏勿怨天
錫杖をもって桜の木を打つと、阿梅の方忽然と現れ、一首の和歌を詠んだ。
しらせばや穂の出し花の面影にたち添ふ雲の迷心を
詠むやいなや、阿梅は変じてたちまち如意輪観音の姿となり、紫の雲に乗り、西方さして飛び去った。これを見た者は皆、口々に念仏を唱えたという。
正行寺にあったと伝えられる観世音は、この阿梅の供養のために造営したもので、花畑には、阿弥陀仏の供養塔を建てた。時移り正行寺は今はなく、阿弥陀仏の供養塔のみが、今でも路傍に立っている。
参考 『長沼町史』