■桙衝神社縁起
昔、日本武尊東征のとき、柊の八尋の桙を亀居山山頂に祀り、蝦夷平定の祈願をしたところから、桙衝の地名が起こったといわれる。
弘仁12年7月10日、弘法大師がやってきて、亀居山の麓に一寺を興した。丑寅の方角に夜な夜な怪しい光が輝き、さながら日光のごとくであった。大師がこれに近づいてみたところ、ただ塚があるだけで、他にはなにもない。
大師は塚の下で2日3晩の祈祷を行った。すると、不思議な怪火は止まり、忽然として御桙が塚から出現したという。大師は神霊となして、桙衝神社の御神体として祀った。桙が出たところを、下の沖塚と呼んでいる。
延喜年間には四十余郷八十余村の総鎮守となった。のちに当地を「鉾衝」と書くようになったところ、神事祭礼の折、争いごとが多く起こり、神前をけがすことが多くなった。
慶長元年、領主榊原忠次の時代に延喜式に記載するところの「桙衝」にもどしたところ、争いはおこらなくなったのだという。
■桙衝神社の御龍灯
桙衝神社の御龍灯は、午後9時より10時ごろの間に出て、あるいは午前2、3時ころに出ることもしばしばあるという。
その様子は、亀居山の北側の江花川の付近を提灯より少し小さな火の玉となって次第に昇って、亀居山の松の梢1メートルくらいの高さに至って漸次に消え失せる。
あるいは地上1.5メートルくらいの高さで真紅になり、あたかも火を焚いたようになってのちに火の玉となって中央に昇ることもある。明治44年8月には、毎夜のように出たという。昔はまた、古舘や堀込の付近からも亀居山に向かって火の玉が飛んだとも言われている。
■桙衝神社の絵馬
慶安元年、白河城主榊原忠次が桙衝神社のお堂を修復した。そのときの奉行石井角兵衛吉重・長井平右衛門が奉納した双方の絵馬がある。狩野探幽元信が描いたものといわれる。
奉納当時、毎日のように馬場先の麦が荒らされるので、どうしたことかと村人が調べてみると、毎夜、絵馬の神馬が抜け出して跳びまわっているではないか。これは大変と絵馬につなぎ杭を描きつないだところ、それからは抜け出さず、農作物は荒らされなかったのだという。
参考 『長沼町史』