文化年間のころ、全国的に凶作が続き、桙衝村も例外ではなかったが、時の庄屋の年貢の取立ては厳しかった。
困り果てた村人を見た時の組頭森藤喜兵衛、斎藤惣兵衛の両名は、白河の殿様に窮状を直訴した。しかし、直訴の罪で2人は捕らえられてしまい、打ち首の刑に決まった。
長楽寺の和尚はこれを聞き嘆願したが時既に遅く、2人は処刑されてしまった。一方の庄屋も、西白河郡五箇村に所替えされてしまったという。
「庄屋様をにらみ潰しにする」という2人の遺言で、池下山の中腹に庄屋様をにらむように地蔵様が建てられた。このにらみ地蔵も今はない。
また、2人の霊を村人たちは神に祀り、由来を記した巻物を神社に納めたのだという。2人の義民の墓は現在も残っている。
刷霜道垢信士(文化五辰年十月十三日)
義光瑞用信士(文化二寅十月朔日)
時の庄屋はその跡が絶えたといわれる。
参考 『長沼町史』