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かっぱの詫び証文  
 

■かっぱの詫び証文

 天正の昔、秋の長雨がようやく止んだある日、馬場城主八郎左衛門は愛馬大月に乗って女郎寺へとおもむき、住職宥法と碁を打ち時の立つのも忘れていた。ようやく日が没したころ、次の機会にと別れを惜しみ、鐘撞松につないであった愛馬にまたがり帰路についた。

 釈迦堂川の濁流は夕闇にドス黒く妖雲を漂わせたが、八郎左衛門はものともせず、川を渡った。しかし、川の中ほどにさしかかったとき、馬は異様にいななき棒立ちになってしまった。殿は大喝一声、鞭をふるって、ようやく岸にたどりついたのだった。

 ところが、どうも馬の様子がおかしい。さてはと馬の後部を見てみると、なんとかっぱが馬の尻尾につかまって、尻を抜こうとしているではないか。殿は大いに驚き且つ怒り、逃げるのをひっ捕らえ「汝かっぱめ」と太刀を抜いて手打ちにしようとしたとき、かっぱは悲しげな声で「わたしには妻子も多数の子分もおります。ここでわたしが命をおとせば、皆が路頭に迷ってしまいます」と再三詫びをいれた。さすがの八郎左衛門もあわれと感じ、今後人畜に危害はもちろん、水難の無きよう守ることを誓わせ、石にこれを記して証文として許してやった。

 殿はこれを城の東方の小高い丘に埋め、周囲に杉を植えて百姓たちを集め水難よけの祈願をした。

 翌年の初夏のこと。ある真夜中、里に異様な物音が響き、村中のニワトリは一斉に泣き叫んだ。城中では敵襲かと大騒ぎになり、いざ出陣と手配したが見渡すところそれらしきものは見えず、やがて元の静かな夜に帰った。

 殿は、もしやかっぱの詫び証文に変事かと調べさせたところ、詫び証文は無事であったが、埋めた土は半分ほど掘り起こされてあった。実は、かっぱたちが一度は詫び証文を差出し約束をしたものの仕事にならず、なんとかして取り戻そうと群をなしてやってきたのだが、ニワトリの声に夜明けのトキと勘違いし、引き返したのであった。

 八郎左衛門は以後石棺を造り、詫び証文をこれに納め地下深く埋めなおし、上に石の祠を建てて永久にフタを開くべからずと定め、不開(あかず)神社となし、水難除けの神として祀ったという。それが、現在の赤津神社である。

■塚の越と五郎淵

 沖内部落の正面、広戸川と隈戸川の合流点を通称「お出会え」といい、この辺り一帯を縄張りとするかっぱの根拠地であるという。川はいつも渦を巻いており、南岸の水中には洞穴があって、いかにもかっぱの住処にふさわしく、薄気味悪い妖気を漂わせている。古来ここは水難が多く、恐ろしい魔の淵ともいわれている。

 時は慶応のころ、鏡石村に五郎蔵という男がいた。大雨の直後で川の流れも収まらぬお出会えの橋を中ほどまで渡った時、なんと橋もろとも濁流にのまれ、深い淀みに流された。浮いては沈み、「アーかっぱだ、かっぱだァ」と悲鳴をあげたまま、ついに水中に沈みきりになってしまい、身柄の行方もとうとう見つからなかった。またもかっぱのしわざであるとたちまち噂がひろがり、周辺部落の人たちを慄然とさせたという。

 沖内の人々は五郎蔵が遭難した川辺に供養の塚を造り霊をとむらった。それでその辺りを「塚の越」と言い、五郎蔵が死んだ淀みのところを「五郎淵」と呼んだ。塚は増水で削りだされ、今はその痕跡もないが、2つの呼び名は、今も土地の人々の間に用いられている。

参考 『天栄村の民話と伝説』(天栄村教育委員会)

   
 

 「かっぱの詫び証文」の典型的な説話であるが、この天栄村の伝説では後日譚のようなものが付随しているのが特徴である。やはりかっぱの立場からすると、たまには人間の1人や2人おぼれてくれないと困るということだろうか。

 伝説の語られる赤津神社のある釈迦堂川べりには、伝説とはうってかわってかわいらしいかっぱの像が立っており、訪れる人を出迎えてくれる。土手はそれほど手を加えられた様子もなく、花が咲き乱れる心地よい風景であった。もしかしたら、かっぱが日向ぼっこでもしているかもしれない。

 

「開かず神社」こと赤津神社。


神社付近の釈迦堂川。

 

橋のたもとにかっぱ像が。


   
  mapion
岩瀬郡天栄村柿之内。前川原橋のひとつ下、沖内橋の近くに赤津神社があり、かっぱ像は橋のたもとにある。
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