■大越の由来
桓武帝延暦20年、千島大多鬼丸の残党が霧島山(大滝根山)の岩谷にこもり悪行を重ねたので、田村麻呂将軍が征討にやってきた。
将軍は兵を率いて守山の地に砦を築き、明石宮にて夜を明かし、門沢にて朝手水、鎧ヶ作にて鎧を召し、清川内にて勢ぞろい、堂々と大越の地に進軍した。
だが当時七里ヶ沢と呼ばれていたこの地は木々がうっそうとして昼なお暗く、とうとう進路を失ってしまった。しかし、万事休すのその時、1羽の白鳥が飛んできて軍を導くので、全軍は大声を上げて進軍したのであった。
白鳥は戸引の坂を飛び引いて案内し、将軍は難なく賊の住処を探し当て、これを退治することができたのだった。
将軍はこの白鳥は日本武命の化身であると、白鳥大明神を奉祠したのだという。また、この白鳥が飛び立ったところを鳥生平、軍が駆け入った場所を欠入といい、大声を上げて進軍したので「大越」の名が生まれたのだという。
■達谷窟(たつやのくつ)
世人鬼穴という。大滝根山の中腹にあり、入口は4尺ばかりの横穴で中には2間ばかりの広場がある。これを八畳敷という。さらに進むとひとつの階段があり、狭い口を過ぎればまた広くなる。なお奥深くにはつるべ落としあるいは千畳敷と称するところもある。
伝え言うに、夷酋大竹丸悪路王等がこの山を拠点として衆賊を集め暴悪をはたらいたが、ついに田村将軍の討滅するところとなった。
■田村麻呂伝説あれこれ
【田村森神社(郡山市田村町手代木)】
田村麻呂東征の折、進軍の途中に当地で駐軍したと伝えられる。
【大鏑矢神社(船引町船引)】
大多鬼丸の征討中、田村麻呂将軍は鞍掛山に登り周囲を眺めたが、形勢を知ることができない。そこで、鏑矢を一本とりそれを東へ放ち、落ちたところに本陣を置くことにした。そのとき放った大鏑矢がこの地に落ちたので、ここに本陣を進めたのだという。そして、そのときの鏑を祀ったのがこの神社であるという。
【矢柄神明宮(大越町上大越)】
鏑は大鏑矢神社の地に落ちたが、矢柄は大越の古内に落ちたので、当社に祀られているのだという。
【矢立ての松(大越町栗出)】
田村麻呂が鞍掛山から探矢を射て戦い始めたとき、この大松に矢が立ったので人々は矢立松と称したという。明治の大暴風で倒れ、今は無い。
【堂山王子神社(船引町門沢)】
田村麻呂が門沢まで来て敵地を見ると、賊の大将高丸は要所要所を固め、鉄壁の守りを誇っていた。ところが、その時まばゆいばかりに輝く観世音菩薩が岩の上に立たれ、敵の目がくらんだ隙に将軍は弓矢を射ると百発百中、見事退治することができたのだという。観音は堂山寺へ飛び去り、将軍はその霊験に感謝し、東堂山に詣でたのだという。
【白山比盗_社(船引町芦沢)】
田村麻呂東征の折、悪病が流行し将軍を悩ませた。そこで当社を尊崇し、祈願したところその霊験が現れ、悪病がおさまったという。
【東堂山観世音(小野町小戸神)】
田村麻呂が賊との戦いに苦戦したので、この山上に退き、観世音菩薩に祈願をして見事に勝利したので、菩薩を奉謝しかつ命を落とした人馬の供養をしたという。
【入水観世音(滝根町菅谷)】
田村麻呂将軍が討伐を成功させるため、京都鞍馬寺に模して荘厳なる一寺を建立し済浄山鎮国寺と称した。その後清和帝の御世、田村麻呂の守本尊観世音菩薩を安置し、東堂山観世音と並列させたのだという。
【駒ヶ鼻(大越町上大越)】
田村麻呂が最後に陣を張り、突撃の令を発したところだという。
参考 『滝根町史』『大越町史』『船引町史』
『郡山の伝説(郡山市教育委員会、S.61)』