天正7年5月17日、常陸の佐竹義重の軍勢が、関山方面より白河へと侵攻してきた。
白河結城義親(ゆうきよしちか)の軍勢千余騎は、五日市場・館合から、古道の坂(現・市営火葬場がある坂)を通り迎撃した。
激闘の末、白河勢は、藤の川に架かる橋まで引き退いた。この橋を「引目(ひきめ)が橋」という。このとき、白河軍の後背より、十四・五才の少年二人が忽然と現れた。妖しき面貌の二人が敵軍中に躍り込むと、佐竹勢は無数の軍勢と幻覚してパニックに陥り、総崩れとなった。二人の少年が仕止めた首は、二百八十余であったという。
戦い終り、軍と共に城へ引き揚げた少年を、城主義親が召し寄せて、「汝らは如何なる者ぞ」と問うと、「我らは不動明王の使途、矜迦羅童子(こんがらどうじ)と制咤迦童子(せいたかどうじ)なり。行末も汝らを守らん」と答えて、姿を掻き消した。
これ以後、館合の坂道は「合戦坂(こうせんざか)」と呼ばれ、路傍に「味方不動」が祀られた。そこに湧く「味方不動清水」は、今も絶えずに残っている。
参考 『教育のひろば』(白河市教育委員会広報)