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八槻郷の伝説
 

 景行天皇の御世、この地に黒鷲(くろわし)・神衣媛(かむみそひめ)・草野灰(かやのはい)・保保吉灰(ほほきばい)・阿邪爾那媛(あやになひめ)・栲猪(たくい)・神石萱(かむいしかや)・狭磯名(さしな)という8人の土知朱(つちぐも)がいた。それぞれの一族が八ヵ所の石室に満ちていた。
  八ヶ所は要害の地で朝廷の命に服さず、磐城国造が討伐するが逆に敗走してからは良民を略奪して止まなかった。

 そこで天皇は日本武尊に命じてこれを征討させた。土知朱らは協力して抵抗し、津軽の蝦夷に援助を求め多くの猪鹿弓(ししゆみ)・猪鹿矢(ししや)を砦に並べて官軍を射たので前進することができない。日本武尊は征討用の槻弓・槻矢を駆使して七発八発打つと、七発の矢は蝦夷を撃退し、八発の矢は土知朱を射抜いて殺した。

 土知朱を射た矢は全て芽を出し槻の木となったので、そこを八槻というのだという。

 または、日本武尊が八目の鳴鏑で賊を射殺したときにそこを矢着と名づけ、後に好字の八槻に改めたという。

参考 『鮫川村史』より

   
   上記の話は、『陸奥国風土記』逸文に記されているもので、この地にもツチグモの伝説があったというのはオドロキです。もっとも、隣接した茨城県(常陸国)には日本武尊の東征伝説が色濃く残っていますから、その延長にあるものなのでしょう。
  八という数字は、「数が多い」ということを示しますから、この地はツチグモ(蝦夷と関連した人々のことでしょう)に満ちていたということになります。ツチグモとは王化未済の地の原住民のことですから、当たり前といえば当たりまえですが。ヤマトの侵攻に勇敢に立ち向かったツチグモたちに、ここは敬意を払うこととしましょう。

 八槻の伝説の名残を伝えるものといえば、都々古別神社があります。延喜式内社で、奥州一ノ宮とされているそうですから、その由緒は相当なもの。日本武尊が合祀され、伝えるところによれば尊が八溝の夷を退治したことに由来するそうです。旧暦1月には御田植祭があり、県指定の重要無形民俗文化財に指定されています。(07-02-19)

 

八槻都々古別神社の鳥居。

都々古別神社の境内。
   
  mapion
棚倉町八槻。大きな神社なのですぐわかるのだが、車通りの多い国道のすぐ脇なので、出入りするのに苦労するかも。

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