昔、正寛という若い修験者が岩角山に草庵を結び、里を巡って信仰を説くとともに養蚕と機織りの技を伝えていた。
そのころ地頭和田宗基は妻に先立たれ、日夜酒食乱行にふけり、里人に過重な年貢を強要し、さては里の婦女子を我が物にするという目に余る状態であった。
そのため暮らしに事欠き、身を滅ぼした里人や娘たちが日とともに多くなった。泣く子と地頭に勝てずして世を去った里人たちの怨念は白蛇となって宗基を滅ぼさんと館の岩に群がり、岩をなめ石をくずした。この石を蛇冠石または蛇舐石という。
この宗基に玉絹という1人の娘がいた。父の悪行をいさめるために幾度も頼み願ったが一向に改めなかった。玉絹はひそかに館を抜け出して貧しい里人たちに衣類や金品を施したり、機織りの手伝いをしたりして少しでも父の罪の償いをしようと努めていた。
修験者の正寛はいつも里人とともに熱心に説法を聞く玉絹に心引かれ、いつしか若い2人の間に愛が芽生えていった。そして2人は、養蚕を教え、絹糸をたぐり、草木を染色に使い素晴らしい模様の織物たどを織り出すまでになった。やがて玉絹織とし
て名高くなり、遠くから買い求める人が多く飛ぶように売れて里人のくらしも次第に豊かになった。
これを見た地頭の宗基は、織物の六割を年貢米のほかに納めることを命じてきた。非情の課税を知った正寛と玉絹は、ともに里人の苦しい実情を宗基に訴えて税の軽減を懇願したが聞き入れられず、宗基は「無知な百姓どもをまどわす売僧め、死刑に処す」といかり、正寛を石牢に投じてしまった。
その夜半玉絹は、ひそかに石牢の錠を開けて父の熟を謝し、「今すぐ私を連れて逃げて下さい」と頼んだ。正寛は、「いや地頭殿とて悪人ではない、私一人の死により多くの里人を救うことができるなら、喜んで私は弥陀の浄土へ参らせて頂きます」と白衣の袖を裂いて月の光をたよりに、「恋しくぱ南無呵弥陀仏と唱うべし、我も六字の中にこそ
あれ」と一首をしたため、玉絹に渡して翌日処刑された。
玉絹は正寛なきあと、つくづく無常を感じある夜館を抜け出し、西方花水山のふもとの池に身を沈め妙令を絶った。
白蓮のような玉絹の遺体が翌日里人の手により、ねんごろに引き上げられた。母の遺品である数珠を手に正寛からの一首を胸深く抱きしめたその姿は、尊い姿であった。
愛しい娘、玉絹の死によって目覚めた宗基は、悪業を悔い、多くの人々の供養として、蛇冠石の近くあたりに供養碑を建て冥福を祈ったという。
その後、年移り変わって、元禄三年二本松藩主丹羽左京大夫光重が岩角山に帰依して、霊夢の中に聖観音のお告げを得て、「養蚕の業を與す。藩治の根源は大悲を旨としあまねく一切平等の恵沢を施す、諸仏諸天神よ御照覧あれ、そして御加護をたれ仇給い」と、夢の申に見た玉絹の姿を養蚕神として奉ったという。
参考 『白沢村史』