かつて沼沢沼の周囲は昼なお薄暗く、常に霧に閉ざされていた。ことに沼には雌雄の大蛇が主となって棲み、近寄る者に危害を加えるので、人日は一帯を「霧ヶ窪」と呼び恐れていた。
時の領主佐原十郎義連は、音にきこえた豪傑であった。沼沢沼の魔性のことを耳にすると、大蛇を退治し領民の不安を取り除いてくれようと、早速家来5、60人を引き連れて沼へと乗り込んだ。
義連は舟や筏で沼の中ほどまで進むと、矢を打ち込むなどして大声をあげ、大蛇をののしりながら大いに騒ぎ立てた。すると晴天だった空はたちまち暗雲に包まれ、稲妻が走り、静寂であった沼も怒涛が逆巻き、主従が筏の上にひれ伏すと、沼の中から真っ黒な入道が現れた。
これこそ大蛇の化身と主従は勇気を奮い起こし、手に弓矢太刀をもって立ち向かおうとしたが、逆巻く大波のために舟は木の葉のように揺られ、果ては津波のような怒涛が押し寄せ、全員のみこまれてしまった。岸辺で見ていた家来たちは、ただただもう、あれよあれよと右往左往するばかりであった。
とその時、波の中に1本の水柱が立ち、中から赤褐色の物凄い大蛇が姿を現した。大蛇は苦しげにのた打ち回り、家来たちが唖然とそれを見ていると、大蛇の上に1人、悠然とうちまたがっている者がいる。誰やらんとよく見れば、なんと佐原十郎義連その人であった。一度家来と共に大蛇の腹に飲み込まれた義連は、手にした太刀でもってその腹を切り裂き、ただ1人外に脱出することができたのである。
家来たちも急に元気付き、力を合わせてこの大蛇を引き上げ、最後のとどめをさした。大蛇の腹に飲み込まれていた家来たちも助け出されたが、蛇毒に当たって髪の毛は抜け、肌はただれて間もなく死んでしまった。義連だけが蛇毒から免れ得たのは、兜の中に秘めていた1寸8分の閻浮壇金の観音像のご加護によるものだったのである。
義連は大蛇の首を切り落とすと、沼の辺の須崎の上に6尺余りの穴を掘らせ、首を埋めてその上に後難排除、住民安堵のための沼御前神社を建てた。沼の周囲も切り開いて田や畑もできるようになり、人家も建ち、村名も堀内村と名づけられた。これが現在の沼沢村である。
義連が護持していた観音像は、黒川の石塚観音堂に秘仏として祀られていたが、惜しいかな、戊辰の兵火で焼かれてしまったという。
参考 『三島町史』『会津の傳説』(会津民俗研究会、浪花屋書店、S48)
『会津の歴史伝説』(小島一男、歴史春秋社、H4)