■小野の朝日長者
允恭天皇の御世、小野岳の頂上に朝日長者が居をかまえ、この一帯を治めていた。
その頃、都では有宇中将が天皇のお側に仕えていたが、讒言のために退けられ、官職を奪われ奥州に下り、朝日長者のもとへ身を寄せた。
長者には朝日姫という美しい娘がいたが、中将が逗留している間に相思相愛の仲となり、ついに一子をもうけた。長者は名門有宇中将の子孫ができたということで大喜びし、毎日孫の子守りにおおわらわであった。
だが、有宇中将は父の病気で都へ帰らなくてはならなくなり、娘と子を小野に残し、「私の信仰している観音様を置いていくから、大切にせよ」と言い残し都へと旅立った。姫は来る日も来る日も中将の帰りを待ったが、不幸にも中将は都よりの帰路、越後の実川にて急病を得、亡くなってしまわれた。
この伝えを風の便りに聞いた姫は、憂いに沈み、ついにあとを追ってしまった。残された子を育てようにも長者には乳がなく、ほとほと困り果て、観音様にお祈りしたのだった。
ある日、長者の下へ小菊という女中が現れ子に乳を与えると、しばらくの宿を乞うた。長者は喜び、しばらくとはいわず、このまま屋敷に長く居てくれるよう頼んだ。
小菊はまめまめしく使え、母のように子をいたわるので、長者も小菊のことを我が子同然に可愛がるのだった。そうこうしているうちに1年が経ち、子も乳から離れた。
小菊はある日、長者の前へ出ると「何を隠しましょう、私は先に長者様に救われた、小野岳に棲む母猿です。このご恩をいつか返そうと思っていたのですが、赤子を抱えて困っておられると聞いて参りました。これで私の役目も終わりましたので、一族のもとへ帰らせていただきます。」と言うなり、その姿はもう無かった。
長者はこの母猿に感謝し、子の名を猿丸と名づけ、これもみな観音様のおかげと観音堂を建立し、有宇中将、朝日姫の供養をしたのだという。
■猿丸太夫
むかし、小野の郷に猿丸太夫という大長者が住んでいた。その頃の小野岳には鹿や熊などたくさんの獣が棲んでいて、長者はこれらの獣を狩り、毛皮をなめし遠く都へと売っていた。長者は儲けのためにどんどん獣を獲り、ますます富を肥やしていった。
この太夫にも一人の娘がいた。たいそう心根の優しい人で、常々父の殺生に心を痛め、どうにかして止めさせられないかと考えていた。
ある日、姫は父のはいだ鹿の毛皮を被ると、山へ向かった。父はそれを娘とは知らずに弓矢を射、見事に撃ちぬいたが、急いで駆け寄って愕然とした。娘は我が命に代えて、父の殺生を止めさせようとしたのである。
心を打たれた太夫は、それ以後は殺生稼業をやめ、小野岳の頂上に庵を建て娘の冥福を祈り続けたのだという。
小野岳の観音堂は、この長者が建てたものであるという。
■長者の牛と沼尾沼
允恭天皇の御世、小野岳に朝日長者という豪族が住んでおり、小野岳の獣の皮を遠く都まで商いをして財をなしていたという。
長者屋敷に1頭の牛が飼われていた。非常に利発な牛で、用足しをなんでもするので長者はこの牛に手紙を持たせて本郷へ使いにやっていた。小野岳頂上から大内峠に尾根沿いに細道が残っており、牛道と呼んでいる。
ある初夏の夕方、この牛が長者の用を足しての帰り道、雷雨がすさまじく夜道になってしまい、牛は重い荷物を背負ったまま赤粘土の土をすべり沼尾の沼に落ちて死んでしまった。
それ以来、沼尾沼に牛の首を入れると雨が降るといわれ、最近まで会津盆地に干天が続くと農夫たちが牛の首の形を作り、この沼までやってきて水中に投げ入れた。すると不思議に慈雨が降ると信じられていた。
参考 『下郷町史』、『会津の歴史伝説』(小島一男・歴史春秋社)