相川の里に沼御前と呼ばれるところがある。
約1600年前、日本武尊が東夷征伐のとき后妃晴桜姫がお供として広瀬直平を召し連れて尊のあとを慕い雲井の宮古をのがれ、みちのくを北に進まれているおりに、
大海に舟を浮かべし心地して 君を慕えてわれはゆくなり
と詠んで先を急がれたが、無理が祟ってこの村で発病してしまい、臥す身となってしまわれた。里人は心を尽くして看病したのだが及ばず、后妃はとうとう息をひきとってしまったのであった。臨終に及んで「私が死んだら墓の側に桜を植えて給われ」と遺言を託し、
海上の子が船流したる心地して 艪舵もつきてここに果てなん
と辞世の句を残して落命されたということである。
里人は遺言を守り、村の東方ひろびろとした沼地のほとりに手厚く葬り、桜を植えた。桜はやがて大樹となり、藤つるがからみ、毎年春になると桜と藤の花が爛漫と咲き誇って后妃の化身のように美しく、その面影を偲んだものだったという。またこの藤つるが蛇のように見えたとも語り継がれ、この地を沼御前と称されるようになったといわれる。
沼は昭和の始めに美田に変わり、沼御前の墓は山裾のひと隅に移され、ひっそりと祀られている。
参考 『会津本郷町史』