慶長年間、蒲生秀行のころ、蟹川村(北会津村)に平太という百姓が住んでいた。ある日大川にカジカとりに家を出て、本郷の川原へやってきた。当時は徒歩で1時間余りの道のりで、川原の石の上に腰をおろし息を沈め休んでいると、白いヒバリが空から舞い降りてきた。手にしていた網を投げかけるとうまく引っかかったので、平太はそれを大切にはけごに入れて持ち帰った。
平太の家は貧しく、またなまけものでもあったので、悪知恵を働かせ、殿様へ持っていって褒美をいっぱいもらおうと女房に相談すると、蒲生の殿様はケツくさいから伊達の殿様に献上した方が良いということになり、はるばる仙台へと出かけることになった。
仙台公の紋所は「竹に雀」であってヒバリとの因縁も浅からず、政宗公はその白いヒバリに大変喜び、平太に金15両を与えた。政宗公が早速それを時の将軍に献上したところ、上様は「宮城野の萩の名所にはこんな名鳥もいるのか」と訊かれたのに対し政宗公は「これは宮城野でとったものではなく、遠く会津は本郷からとりよせたものである」と答えたので、上様は「会津ではこのような珍しい鳥が獲れるのに、なぜ蒲生秀行は献上しないのか」と大いに怒られ、ただちに会津へ急報された。
これを聞いた蒲生秀行も大変激怒し、早速白いヒバリ国外持ち出しの犯人を探索させた。一方の平太は大金を貰って得意顔で村人に話をしていたからたちまち捕らえられ、見せしめのため近郷近在を引き回しの上、大川の中洲で釜煮の刑に処せられてしまったという。
当時夜になると平太夫婦の幽霊が大川をさまよい出たということであるが、いつか魂はヒバリと共に昇天し、のどかな川原に戻ったと伝えられている。釜は明治の初めまで会津若松市七日町近くの家にあったそうであるが、今は不明である。だが二つ釜の地名にその伝説をとどめている。
参考 『会津本郷町史』