■その1(安寿と厨子王1)
白河天皇の永保3年のころ、浅見川村の豪農に生まれた竹女(姥竹、小笹とも)は、一児の母として平穏に暮らしていたのだが、28の時夫と子を一度に失い、悲嘆に暮れていた。折りしも世話する人があって、陸奥の太守岩城判官正氏の子、安寿姫と厨子王の乳母となった。
その後、正氏は讒言に合い筑紫に流されてしまった(あるいは殺されてしまった)。父を思う妻と子は竹女を連れ流浪の旅に出たが、直江津の港で悪人・山住鬼夜叉(山椒太夫の手下)の手にかかり、母と子が引き離されてしまった。心を痛めた竹女は越後の海に身を投げて果てた。
ある日のこと、浅見川村では一天にわかに掻き曇り、激しい雨が降り注ぐと、暗黒の空を稲妻のように飛来するものがあった。これは1匹の大蛇で、海岸の大きな松に巻きついた。
このことを忌々しく思った家主がこの松を伐ってしまったところ、血が流れたのだという。そして、「血の出の松」が転化して「日の出の松」になったといい、今の木はもとの木のひこばえといわれる。大蛇と化して故郷に帰った竹女の霊は、姥嶽権現として祀られている。
■その2(安寿と厨子王2)
直江津で子等と離れてしまった奥方が浅見川までやって来て亡くなった。娘の安寿姫も山椒太夫のもとから逃れ、ようようにして浅見川までたどり着いたが力尽き倒れてしまった。これを哀れんだ村人たちが2人の亡骸を埋めたところに植えたのが、この松だともいわれる。
■その3(安寿と厨子王3)
直江津で医王丸、万珠姫が三荘太夫にさらわれ、音信が途絶えてしまったことを悲しんだ小笹は海に身を投じたが、奥方はわずかな望みを持って国元へ戻ってきた。しかし、子等の手がかりはなく、とうとう浅見川で死んでしまった。
これを哀れんだ木幡権左衛門が墓標として植えたのがこの松であるという。その後、子の松に金色の大蛇が巻きついていたことから村人は恐れ、松の木を伐ったところ、血がほとばしり出たという。
金の大蛇はその後もしばしば現れ村人を悩ますことがあったので、松の傍らに小祠を建てて祀った。これが蛇王権現であるという。
■その4(日の出に映えた松)
むかし、村はずれの奥州浜街道の道端に、松の大木が生えていた。旅をする者は子の木の下で一時の涼をとり、また冬は寒い北風を防いでいた。しかし、この松からは時折大蛇が下りてきて人々を驚かすことがあったので、村人はこの松を伐り倒してしまった。
数年後、その松の伐り株から五葉松が生えてきた。そして、その松は見事に成長し人々の評判となった。
あるとき、この評判を聞いた役人が道泉寺のお坊さんの案内でこの松を身に来たとき、ちょうど海から朝日が昇り始め、その朝日が浅見川に映える中松の木から雫が静かにしたたり落ちたのだった。
役人はこの美しい情景を見て感動し、連歌を作った。その連歌があまりにもすばらしい出来だったので、その連歌を書いた扇子が作られ、全国に広まったのだという。それからというもの、この松を「奥州日の出の松」というようになったのだという。
■その5(女面蛇体になった娘)
広野の海岸にある二叉の老松は、あたかも2匹の龍が絡まりあったように見え、枝を伐ると血が出ると言われている。
昔、この血にお松という16歳の美しい娘がいた。
あるとき、江戸での参勤を終えて帰る途中の殿様がこの辺りでお休みになった。給仕に出たお松を見て気に入り、侍女として城へ連れ帰ろうとしたが、お松はその仰せになかなか従わなかったので、怒った殿様はお松を船に乗せて龍神ヶ淵に流してしまった。
流されたお松は父母会いたさの一念から、海を泳いで帰ろうとしたが、やっとのことで海岸まで着いたときには力尽き息絶えてしまい、その姿は女面蛇体の哀れな姿になっていた。
両親はこれを嘆いて手厚く葬ってやり、その側には娘の名に因んで松を植えた。そのときに植えた松が、今の松なのだという。また、蛇体についていた貝が、今でもその家に保存されているのだという。
参考 『広野町史』『福島の伝説』(角川書店)
『安寿と厨子王伝説』(黒沢賢一・歴史春秋社)