凡そ八百年前、菱沼に七戸の農家があった。
その中に、欲望たくましい一農夫がおり、長者になりたいと念願していた。
また、その頃遠田郡牛飼邑に一貧農かいて、性温厚、正直で信心深く、常に念仏を唱えていた。
ある日、貧農のもとに旅の乞食僧が訪ずれ、宿を乞われた。そして、一数年ここに寄宿し徒食したが、貧農は少しもこれを苦にせず手厚く僧を養っていた。
ある夜、貧農は夢で「拙僧、多年信施を受けながら読経念仏もせず、この罪はまぬがれないので、今畜生に落ちて、主人のために宿賃を償います」と聞いた。
農夫は目が覚めて早速、僧の部屋に行って見ると、なんと僧は大牛になっていた。この牛は力が強く、農作業や駄賃取りに大変よく働くので、その貧農は日毎に繁栄して大富農となり、安楽たる生活を送ることになった。
このことを伝え聞いた菱沼の欲張り農夫が、「俺も旅僧を養なって大牛にし、使役して富農となりたい」と旅僧を待ったのであった。
ちょうどこの頃、法然上人は浄土宗弘通のため、六十余州に弟子達を遺わし、念仏を勧教していた。
その中の金光上人が奥州の教化に当り、図らずもこの農家を訪れた。農夫は非常に喜び滞留を願い、一庵を提供して「親切に養って上げます」と申し出た。
金光上人は農夫の言葉に従い、菱沼にとどまり、念仏弘通の修業に専念した。
農夫は朝夕いろいろの食物を提供し、庵の僧に親切であった。しかしその親切は決して布施や菩提心のためではなく、専ら「僧が牛になれ、牛になれ」と祈るためだつたのである。
そんなある日、農夫が病をおこして苦悶した。見るみるうちに額に角が生え、人面でありながら、体は黒牛の姿に変ってしまったのである。
金光上人は隣れと思い、ひたすら読経念仏し、この苦厄を除かせようとしたが、悪念自業の報いか、一済の利益はなかった。
金光上人は急ぎ京都に上り、法然上人にこの詳細を報告し、「老師奥州に下り難化の悪人を済度し給え」と願い出た。
法然上人は鏡に向つて自らの木像を彫刻開眼し、金光上人に授けて、「われ今奥州に下らぼ、都の念仏弘通が中途になる。この像は、われに違わず、汝、急ぎ奥州に持ち帰り、変牛の農夫を済度し、念仏弘通諸願成就せよ」と教え導かれた。
金光上人は歓喜して速かに奥州に下り、農夫に法然上人の像を拝させ、妻子親族を集めて念仏の修行を促した。
数か月して変牛が経文を唱えると、ついに共に元の姿になった。
妻子親族は大いに喜んだ。教化の妙応を信じた農夫は、ただちに髪を切り、金光上人の弟子となり、僧となって南部の遠野善明寺住職となり、正牛房と号し、生涯を仏に仕えたという。
これから菱沼の地名は真似牛、寺は真似牛寺と呼ばれたという。なおこの真似牛往生寺には変牛の角・爪・尾だと称するものが宝物として所蔵されている。
法然上人の木像は、今はわけあってま加美郡王城寺の往生寺に安置されている。
参考 『栗駒町史』