むかし、長沼とその周辺が一面の草谷地であったころ、長沼の水を使って水田を開拓しようと二人の役人に命じ、今でいう測量調査のようなことを実施させることにした。
それで今の小友部落のある家に宿を借り、水田の開拓、長沼の用水堤防の工事に着手したのである。
その頃、宿に芳子という目もさめるようなきれいな娘がいた。芳子は非常に親孝行であり、また兄弟仲もむつましく、まめまめしく働いていたので、部落の若者たちのあこがれの的でもあった。
はからずもその家に宿を借りた二人の役人たちも、芳子の美貌にひかれ、お互いに芳子に恋慕し、仲間同志でありながら芳子のことについて争うようになった。
芳子はそのことを知って非常に責任を感じるのだった。役人二人が自分に恋こがれていることを知り、人知れず心を痛め、私さえいなかったらと思うようになった。
その頃、長沼の堤防の中でも難所といわれた一の曲りは、大雨のたびごとに決潰して困り果てていた。
そんな時、誰いうともなく人柱を立てれぽ堤防は永久に決潰しなくなるという話しが芳子の耳に入った。そして純真な乙女心に浮び上ったのは、その人柱になろうということだった。
そして、世のため、人のためにもなるものならと思い、はかない自分の運命を悔むことなく、沼に身を投じて人柱となり、堤防のいしづえとなったのであった。その時、芳子は僅か十六才だったということである。きれいに生まれたぽかりに十六才の短い生涯を終えたのである。
それからは役人の仲間割れもおさまり、一の曲りの難所も立派に完成したのであるが、芳子が沼に身を投じてから七日七夜、すすりなく声が聞えたということである。
あまりにも不びんに思った部落の人たちが、芳子の霊を慰め弔うために建てたのが今に残る芳子の墓である。
芳子の墓は大形と小友の境にあって、無彫刻の自然石が三つ立っている。部落では「芳墓」と呼んでいる。
現在は新田中学校の一隅に有志の手で供養碑が立てられている。
参考 『迫町史』