建武新政のころ、北畠顕家卿は義良親王を報じ陸奥の精鋭を率いて足利尊氏を敗走させたが、その後南朝の勢力振るわず延元3年和泉の石津にて戦死した。
京都に残された婦人と禰々麻・醍醐の姉弟はこのことを知らず、京より陸奥を目指し旅立った。当時の乱世に女子どもの旅は熾烈を極め、ようやく陸奥の地を踏むなり夫人は病没し、従者たちもはぐれて残るは幼い姉弟と従者1人となった。それでも父恋しさのあまり草深い陸奥国をさまよい歩いたが、父の消息もつかめぬまま年明けて延元4年となった。
長い冬がようやく終わり山河が緑がかったころ、醍醐は旅の疲れからついに失神し、うつらうつらと叢の中に迷い込んでしまった。
とうとう弟までもはぐれてしまった禰々麻は、呆然とさまよい歩くうちに1人の農夫から父の死を知らされ、悲しみのあまり従者の隙をうかがってかたわらの沼へ投身して自殺してしまった。
その後、幾日かたって醍醐がふらふらとこの沼地にさまよい、水面に姉の姿を見て「おお姉上」とうれしさのあまり沼の中に飛び込み、やはりそのはかない命を閉じてしまったのだという。
現在本町の三峰神社境内に醍醐池があり、さらに西南に数百メートル離れた田の中の小さな丘に禰々麻墓が残っている。
参考 『若柳町史』