伊達騒動のとき伊達兵部を斬ろうとして捕らえられた伊東七十郎重孝は、寛文8年4月28日米ヶ袋の刑場で斬首に処せられたが、牢を出るとき床板をドウドウと踏み鳴らした気力は33日間断食した人とは思えなかったという。
鹿の子清水の坂から捕縄をとっていた獄卒を横倒しに引きずったまま駆け出して刑場に向かい、土壇場に座ってから斬首役の小人萬右衛門に「人は首をはねられると前にのめるが、おれは仰向けになるだろう。さすれば兵部殿を3年のうちに亡き者にしてみせよう」といい、萬右衛門が切り損ずると後を振り向いて「おちついて、よく斬れ」といい、果たして後に倒れた。
萬右衛門は翌日、小人頭をやめて仏門に入り、七十郎の供養に立てたのが縛り地蔵だと言い伝えられる。
この地蔵は人間の苦しみなら何でも除いてやるといわれ、自分が縛られてお上を救ったことから願掛けに顔も身体も縄でグルグル巻きにされて、縄束が立っているように見える。毎年夏の縁日のときだけ縄を解くのでお顔はこの日だけしか見られない。
そして広瀬川のこの地蔵があるほとりは260年この方1人も溺死者を出さなかった。ある年に若い娘が川に飛び込んで死のうとしたときに、地蔵さんが川の中から現れて「お前はここで死んではならぬ」と言って家に帰したということである。
維新の頃太聖寺境内に遷されたが、その後米ヶ袋地方に疫病が出たり禍が多かったので、再びこの地に戻した。それ以来米ヶ袋がだんだん栄えるようになったという。
一説には寛永元年正月切支丹徒を大橋の下で水漬けにして処刑したとき、伴天連デエゴ・デ・カルヴァリヨの骸を試し切りにして川に投げ込んだのを信徒たちがこの川原で拾い上げて葬り、その上に建てたものといわれ、地蔵さんの衣の裾のひだがカトリック教の神父の服とそっくりだという人もある。
参考 『仙台市史』、
『郷土の伝承』(宮城県教育会)