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木ノ下薬師   
 

■48人の僧兵

 木ノ下薬師では、昔旧正月6日の祭礼には国分寺24坊の僧が甲冑をつけ太刀を抜いて回る剣舞が行われたが、それには次のような言い伝えがある。

 昔伊達政宗が大崎義隆と戦って旗色悪く、すんでのところで敗れようとしたとき、どこからともなく48人の法師武者が加勢して大崎勢を切り崩し、政宗に勝利をもたらした。「御僧たちは何処より来られしや」と政宗が訪ねると、「国分木ノ下の住人」とだけ答えていずことなく消えてしまった。
  そこで侍臣を木ノ下へやったが、それらしい者は住んでいず、坊舎もない荒廃した中に大木が立ち並び、その下に石の小さな堂があって中に薬師如来の像が立っているだけであった。
  するとその晩、政宗は霊夢を見、加勢してくれたのは木ノ下の薬師であることを知ったのだった。

 これが吉例となり、政宗は大阪陣にも48人の僧を従軍させた。
  薬師堂と国分尼寺の間に屯坊というところがあり、大阪出陣の際に1山24坊の僧が評定を開いたところだという。祭礼にはここで3度のトキをあげるのが例になっている。剣舞もその遺風だという。

■薬師の加護

 文禄の役のとき、伊達の船団が肥前名護屋を出航して間もなく、政宗の乗船に1人の密航者が発見された。それは旅装束のみずぼらしい僧であった。
 すぐに政宗の前に引き出されたが悪びれる様子も無く、「拙僧は木ノ下国分寺の学頭坊の僧にございます。かねて久しく明国へ渡って学問修行せばやと志して参りましたが身貧しく果たし得なかったところ、このたびわが君御渡海と承りひそかに参りました。何卒便船をお許し願わしゅう存じます」と答えた。
 好学の政宗はこの志を殊勝に思いこれを許した。

 この航海は非常な荒天に悩まされ、一時対馬に避難したほどであったが、無事釜山に入港することができた。

と ころが政宗が帰還するとき、再びこの僧が船にまぎれこんでいて先年の礼を述べ、「殿の御座船を逃しては、せっかく学問を修行しても国に帰るあてが無いゆえに、再びお許しを待たずして乗船させていただいた」と詫びたのだった。

 政宗が帰還してからのある夜、神々しい仏が夢枕に立って、「われは宮城野木ノ下の薬師である。その方の渡海を護ってやるために僧に化身して行ったが、無事帰還してめでたい」という告げであった。

 居城岩出山に帰った政宗は直ちに重臣を木ノ下薬師に代参させて加護を謝し、後に仙台を開いてから薬師堂を再興したのが現存の国宝建築であって、この堂を善逝堂ともいっている。

■白山宮とお薬師さん

 薬師堂境内の白山宮は古い社で、伊達氏以前に国分33郷を領した国分氏の氏神であった。かつてはもっと境内が広く、薬師堂はその境内に建てられたものだという。

 3月3日の祭礼には、神事に先立って鳥兜をいただき狩衣をつけた12人の使者が薬師堂の前に行き、土を盛った祭壇の上に立って「薬師さんお立ちなさい、お立ちなさい」という。すると薬師堂の方からも12人の取次ぎが出て「もう3年、もう3年」と答えて式を終わる行事がある。

 昔、お薬師さんは10年間の約束で白山さんから土地を借りたのだが、そのとき、借用証文の『十』の字の上にこっそり『ノ』をつけて渡したため、白山さんがうっかりしたばかりに『十年』の約束が『千年』になってしまった。だからこうして毎年立ち退きを催促するのだという。

参考 「仙台市史」

   
   現在木ノ下薬師のある場所は、国指定の陸奥国分寺跡である。陸奥国分寺は中央政府にとって奥州経営の重要施設であり、そのことを示すように武蔵国分寺に次ぐ規模なのだという。
  国分寺は残念ながら頼朝の奥州藤原氏攻略の際に戦火で消失してしまい、現在の薬師堂は伝説中にもあるとおり1607年(慶長12年)、政宗の建立による。現在、境内は広い公園になっていて、近所には学校や寺社の並ぶ市民の憩いの場である。
 

木ノ下薬師。

白山神社。
   
  mapion
若林区木ノ下3丁目。大きな史跡なので、大丈夫。
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