■与次郎稲荷■
江戸時代のはじめ、秋田に転封されてしまった佐竹義宣は、久保田山頂に屈強な城を築いていた。
そんなある夜、義宣の枕もとに白髪の老人が現れた。「わたしたちは、この山に古くから住む白狐です。わたしたちの住処が壊されています。どうか少しでもわたしたちに土地を与えてください。そうすれば、きっと城をお守りいたします。」
はじめは気にもとめずにいた義宣公だったが、そんなことが毎晩のように続くので、ようやく狐に土地を与えてやることにした。
数日過ぎたある日、義宣の前に、与次郎という飛脚があらわれた。この若者は、秋田と江戸の間をたった六日間で往復し、さらに忠実に職務をこなしたため、大変重宝された。
与次郎は、出羽の六田の地を通る際、決まって間右衛門という男の宿に泊まることにしていた。間右衛門には、お花という娘がいた。
お花は、ときどきやってくる与次郎に、密かに恋心を抱き、やがて与次郎にその心を告げた。しかし、与次郎は、「自分は本当は白狐である」ということを告白する。だが、たとえそうであったとしても、お花の恋心はつのるばかりであった。
そのころ、佐竹の不穏な動きに幕府が目をつけ、さかんに秋田に隠密を送った。しかし、幕府の動きは全て与次郎が義宣に伝えたし、幕府の隠密は全て与次郎の手によって殺され、ひとりとして江戸に戻ることはなかった。
やがて隠密組もようやく与次郎の存在に気が付き、必ず立ち寄るという間右衛門の宿をかぎつけた。
隠密はさっそく間右衛門に会い、「ぜひ力を貸してくれ」と、小判をちらつかせた。金に目がくらんだ間右衛門は、「やってみましょう」と、与次郎を討ち取る計画に加わることにした。
しかし、隣りの部屋では、お花がこの話をこっそり聞いていた。身もさけんばかりに驚いたお花であったが、そのとき、何も知らない与次郎が宿にやってきた。
間右衛門は何食わぬ顔で与次郎を部屋に通し、与次郎もすぐに寝込んでしまったが、そこへお花がやって来て、与次郎を起こすと、密かに事の次第を告げた。
「ありがとう、お花さん」とお礼を言った与次郎は、宿屋の裏口から密かに逃げ出した。
すると、どこからともなく、油揚げのおいしそうな匂いがぷーんと漂ってくる。空腹であった与次郎は思わず匂いのする方へ近寄っていったが、ふと我に帰り、「いけないいけない、今は職務中だ。早く秋田の殿様へ手紙を届けなければ。」と、戻ろうとしたが、「いや待てよ、これをこのままにしておいては、あとから来る仲間たちが大変だ。どこかへ捨ててしまおう。」と考え、再び油揚げに近づいていった。
そのとき、どこからかブーンと矢が飛んできて、与次郎の左眼に突き刺さった。
与次郎はよろよろとよろめき、秋田へ届けるはずであった箱を空高く投げると、「お殿さまー!」と叫んで息絶えてしまった。
「ひっひっひ、今夜は狐汁のごちそうだ。」草むらの中からでてきたのは、この村に住む性悪の猟師、谷蔵であった。
秋田の義宣公は、与次郎の帰りを今か今かと待っていたが、庭の木に、見覚えのある箱がかかっているのを見つけた。
「与次郎の身に何かがあったに違いない。」と、早速様子を探らせると、与次郎が殺されてしまったことがわかったので、義宣公は悔し涙に暮れたという。
与次郎の死体はお花の手で厚く葬られ、お花はどこへともなく姿を消してしまった。
間もなく六田の里には異変が続いた。
まず谷蔵が発狂し、妻子を殺したあと自殺してしまった。そのあとも村には疫病が流行ったり、大火災が起こったりした。これを与次郎の祟りであると恐れた村人は、早速与次郎を与次郎稲荷大明神として祀り、それからは怪しいことは起こらなくなったのだという。
参考 『出羽の伝説』(角川書店)